昭和50年12月18日 朝の御理解
中村良一
御理解 第59節
「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
習うたことを覚えておってという事。習うたことが、そのまま、血に肉になってという事なんです。だからもう、体験というかね。を積んだ上にも積まなければ、自分のものにはなりません。自分のものになっとかなければ、いざと言う時に役に立ちません。習うたことを覚えておってという事は、はぁ今日は、よか御理解頂いた。なるほど、そうじゃろうと。確かにそうだと。ほんなら、こう分かっただけではいけないと言うこと。それが、自分の、言うなら、信心の血に肉になっておらなければ、いざと言う時に、一つも役に立たない。これでは、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びという様なおかげになってこない。何時までたっても、お願いをして、おかげを頂いて、そして、はぁ金光様のご信心ちゃ新たかだと、と言うて、自分が喜ぶだけであって、ね。金光大神も、お取次のお骨折りをかけただけに終わられる。天地の親神様も、ね。ただ、おかげをやった、渡したと言うだけで、全然、進歩が見えないなら、神様も喜んで下さらない。神様も喜んで下さり、金光大神も喜んで下さり、ね。そして、私共も喜べるという信心にならなければならない。その習うたことを覚えておってというところが、だから、一番大事だと思うのです。そこん所を、やはり、同じことでも、繰り返し繰り返し、稽古させて頂くうちに、言うならば、本当な事になって来る。本当なものになって来る。だから、おかげも、また、本当なものになって来る訳です。ね。やっぱり、稽古が大事です。
こりゃ、例えば、大工とか、左官の仕事でもそうでしょう。師匠から習うた通りのことは、あぁそうかと分かるのだけれども、実際に、自分がやってみると、どっこい、師匠がやるような風にはいけない。やっぱり、繰り返し繰り返し、まぁ場合には、失敗もしながら、繰り返しして行くうちに、いうならば、仕事が仕事を教えてくれるという様なところまで、もう限りない上達を見ることが出来るようなもんです。信心も同じこと。
昨日は、合楽会でしたから、言うなら、時の経つのを忘れる様にして、まぁ十二時過ぎぐらいまで、お話を聞いたり、させて頂いたりした事でしたが。最近、金光大神の世界という。金光大神の世界とは、その、どういう世界かと。もし、これを一口で言うたならばという事を、昨日の朝の食事の時に、高橋さんと、繁雄さんと三人で、その事を話したんです。金光大神の世界という事を、一口で、例えば、表現するなら、どういう事になるかと。私共は、金光様の信心を頂いておるから、金光大神の世界に住んでおるという事ではない。金光大神の世界に住んでおるという事は、金光大神の言われることを、よく守って信心して、そして、おかげの頂けれる様な状態。自分が、何時も助かっておれれる様な状態を、金光大神の世界に住むという事である。しかも、金光大神の世界と言うのは、広くて深くて、もう限りがないのですけれども。まぁそういう深いところには至らなくても、まぁ世界に住むだけの、一つおかげを頂きたい。
佐賀の葉隠れの中に、武士道とは、死ぬる事だと極めたりですかね、見つけたりという様な言葉があります。もう本当に、このくらい、まぁ私共は、武士道が、どういう事か分からんけれども。私共が知ってる範囲で、武士というものは、どうあらなければならないかという事をです。このくらい素晴らしい、簡単な言葉で表現してある事はないと思うです。ね。先代萩の、あの政岡のセリフではないですけれどもね。死ぬるを忠義という事は、道のよからぬ習わしぞといった様なところがあります。もう、死ぬる事が忠義だと、こう決めてあるんです、武士道と言うのは。何時でも、君の御前に、ね。死ねれる侍でなからなければ、本当の侍じゃないんだと。もし出来ないならば、ね。卑怯未練なことであったりするならばです。それは、侍ではあっても、腰抜け侍という事になるのです。ね。
ほんなら、御道の信心を頂いても、やはり、同じこと。金光大神の世界という事を、一言で言うならば、ね。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃとこう教えられますが、ね。あれという事は、何か、このことですから、お互い、体験を積んでいきよれば、はぁあん時のあれが、おかげだったという事が分かるのですから、また、そういう難しいことではないけれども、ね。これがおかげであると分かる世界を、金光大神の世界だと言うのです。ね。
どこを切っても、有難いという答えしか出てこない。どこを切っても、おかげという言葉しか出てこない。これは有難くない。これはおかげでないといった様な事ではない。一切が、おかげであると頂けれる世界には、お互いが、そこに、まぁ難儀を感じておるとするなら。なるほど、難儀そのものは、苦しいことである。金がなからにゃ、ね。借金をおうたりしますと。借金の催促を受けるという事は、本当に辛いことである。本当に、四百四病の病よりも、死ぬよりも辛いものはないというほどしに辛いもの。辛い、けれども、有難いという答えが出てこんやいけん。ね。病気をする、腹が痛む、頭が痛い、ね。痛いけれども有難い。
昨日、秋永先生が、ちょうど、会合に出ておりました。先日から、御本部で、(?)譲渡のお話を頂いた中に、ね。今日只今、この様にして、生きておるという事が有難いじゃないかと、それを言われた。だから、金光教の信心は、そこを分かりゃ良いんだ。そこを分からせようと、また、しておるんだと。もう、誰だって分かるです、分かるだけなら。ほんなごつ、そげんいや、やっぱ、生きとるち言うことが有難い。頭が痛かっても、腹が痛かっても、そこに例えば、難儀の、言うならば、借金の催促を受けて、血の涙の出るような思いをする事も、死んどりゃ、そげな思いはせんとじゃん。死んどりゃ、腹も痛まなきゃ、いわば、熱もないのだから。そこ迄なら、分かる事は、誰でん分かるばってん。先生、あーたんごつ、難しか事言いなさっちゃ、誰ん分からんですよと言うて、まぁ秋永先生が、その先生に、まぁ申したという事です。ほんならもう、高橋正雄先生辺りの本どん読むならば、そんくらいな事は、もう、すぐ合点がいくように分からせる事だけならば、説明がしてあるのだけれども。実感として、それが伴うて来なければ、はぁ本当に痛い、けれども有難いなぁと、真に有難いというものが出て来なかったら、それはもう、分かっとらんとと同じ事なんです。ね。
昨日の朝の、お届けのある時に、合楽の田中さんが、こういうお届けをなさっておられる。娘さんが、楽の御用を頂いておる。ところが、御大祭の日に限って、勤めておるところが、忙しいか何かで休まれない。さぁお母さん、その事が残念。その事が引っかかってたまらん。娘に言うことを聞かせきらんことが残念だと言う。御大祭をいただきながらでも、その事がもう、とにかく、心に引っかかって、とうとう、お祭りがすむまで、その事が、心の中から、さっぱりしない。それも、こんな事じゃ、今日の御大祭を頂いても、何にもならんと。いよいよ、親先生のお説教が始まるというので、今日はもう、一番前に出て、お話を頂こうと思うて、前に出てきてから、御理解を、いわゆる、御教えを頂いた。そん時にです。あれもおかげであったという事だけではなくて、これもおかげであると言う、そのお話を聞いた途端に、この御教えはもう、どれほど、繰り返し繰り返し頂いたか分からなかったけれども、ね。娘が言うことを聞かなかった。御祭事に、楽の御用がいただけなかった。それもおかげであると感じさせて頂いた途端に、有難うなって、本当に、大祭ちゃ、こんなに有難いもんだろうか。お話ちは、こんなにも、私の心を、救い助けてくれるもんだろうかと。それこそ、涙に暮れながら、お話頂いたと言うのです。ね。これでも、ほんなら、そんなに素晴らしい、一つの悟りといった様なものはですね。ほんなら、私でも、ほんなら、ついこの頃までなら、そら田中さん、ちーった、間違うとらせんのち。あぁ大祭に楽の御用が頂けじゃった。あぁそれもおかげち言うなら、あーた、信心の進歩は、一つもないじゃないかと言うたかも知れませんけれども。ほんなら、今日の私は違う。ほんなごと、そら田中さん、あんた自身が楽の御用が頂けなかったのではなくて、娘自信が、楽の御用が頂けなかったのであるから。祈りながらも、願いながらも、そうなったのであるから。その時点で、それも神様のご都合に違いはない。それもまた、おかげであると分からなければ救いがない。
例えば、そういうような信心がです、ね。ほんなら、繰り返し繰り返し、ほんなら、また次の問題にぶっつかった時にです。なかなか、これもおかげとは思えないでしょう。けれどもです、そういう体験を積んでいくうちに、私は、いよいよ、金光大神の世界、いわゆる、これもおかげであり、おかげであった、または、あるという事を確信して、その事にお礼が言えれる様になる。一遍二遍で出来るこっじゃないと私は思うです。
昨日の朝も、高橋さんに、食事の時にも話した時にもです。あんたが、今朝からお届けをしたでしょうがて。ね。お寿司を作る工場の、福岡のほうで、どうも人間関係が面白くない。雰囲気が良くない。そこの責任者が、どうも、がみがみ屋で、もうとにかく、もう言葉汚う、口汚う、その、他の者に怒鳴り散らかす。だから、もうとにかく、あげな責任者が居るなら、もう私だん、仕事は辞めると言った様な声すら聞こえてくる。どんなもんでしょうか、これはもう、合楽流に、黙って辛抱しとくべきでしょうか。または、この頃から頂いたように、ね。高橋さん、これからは、快刀乱麻という事を頂いておった。もう、すぱすぱと、それこそ、あの、しだごだな事でなくて、すきっとして行く様な生き方を、人間関係の上にでも作るべきだという様な御理解を頂いとったんです。だから、それこそ、快刀乱麻的に、もうそげんとは、首にしたほうが、ようはないでしょうか、どっちにしたが良いでしょうか。黙って辛抱しとく事が合楽流儀でしょうか。または、そこで、快刀乱麻的に、スパッと首にでもしたほうが、あとの人間関係のも、スムーズに行くのじゃないでしょうかと言うお伺いがありました。それでね、私は、高橋さんにね、そげなね、合楽流に辛抱しとくとかね。快刀乱麻的に、ほんなら、それを切って退けるような生き方をしたが良いか、どれが好いかという事じゃないよと私が言うた、信心とは。その時点でね、いうならば、ね。これもおかげだと頂くような、すきっとした信心が出来なければ、おかげにならないよと。お伺いをして、先生が、右と言いなさったけん、右をした。左と言いなさったけん、左をしたと言うだけじゃいかん。いかにも、神様任せのごたるけれども、それでは、自分の心が、一つも助からん。ね。と言うて、まぁ私の例を取らせて頂いた。私が、前日の大祭の時に、私自身が感じたことを、それに当てはまる様な事があったから、ね。どうした人じゃろうかと、口では言いよるけれども、心じゃ、それがおかげと思い込んどるんだと私は。ね。
そこで、高橋さん、最近言われる、金光大神の世界に住むという事は、どういう事かと、一言で言うならば、あんた、どういう風に表現するかと。と言うて、その葉隠れの中にある、武士道とは死ぬる事と見つけたりと言う様なです、ね。言葉を持ってするならば、ね。それは、やっぱり、金光大神の世界に住むという事は、やはり、これもおかげであったと分かる信心になった時に、金光大神の世界に住んだのでしょうとこう言うのです。分かってるんです。繰り返し頂いておるから、その事が分かっているけれどもです。実際、問題として、右にしたなら良いだろうか、左にしたなら良いだろうかとお伺いしなければ、それを決めきらないといったような間は、まぁだ、本当の事じゃぁない。もう、これがおかげだと、ね。そのおかげの内容を言うなら、色々ありましょう。そら分からん。何故、おかげかという事は分からんけれども。もうとにかく、おお掴みにして、おかげだと。ね。場合には、巡りのお取り払いを下さっているかも分からない。
そげん言いなさりゃですね、先生、その、どこどこの支店長、まぁどこどこの支店長をしているのは、元は、三福寿司で、もうそれこそ、もう、どうにも出来ん、言うなら、不良職人であった。それが、店を辞めるとか、辞めないとかと言っておるうちにです。最近は、この二人が、目覚しい、言うならば、支店長としての働きをしておる。あん時に、私が、本当にもう、こげんとは首にしとこうとか、ね。一人なんかは、もう、店を出て、あちらでも失敗し、こちらでも困ったことになって、そして結局、三福寿司にまた戻ってきた。そん時に、あちらに支店を作ると言う。ほんならお前、どこどこの支店に行かないかと言うて、そん時には、もう家内子供があった。家内も子供も連れて、その、ある支店にやった。もう、それこそ、もう一途になって勉強する。一途になって商売に熱心に打ち込む。だから本当に、あの時点で、さぁ言うと、どういう事になるかというと、やっぱ、あれもおかげであったという事は分かるもの、そういうのですら。ほんなら、現在だって、同じじゃないかと。現在、どこどこの工場の責任者が、どうだというけれどもです。これがほんなら、何年後か、何ヵ月後かにはです。必ず、あれでなからにゃ出来じゃったという風になって、初めて、あれもおかげであったとだけでは、まだ、金光大神の世界に住んでいるとは言えない。だから、その、目に余る様な事もあろうけれども。そのこと自体がです。ね。おかげだと。
例えば、肺病なら肺病になる。血を出る、熱が出る、微熱が出る、ね。それは、そういう病気の自戒作用だという事を、私は、医学の事は分からんけれども、話を聞いた事があるが。言うなら、高橋さんのお宅、言うなら、三福寿司の自戒作用があっておるのだから、有難いじゃないかと私が言うた。皆さん、本当の事はそうなんですよ。ね。幾らかでも身体を楽にさせよう。幾らかでも全快させようという、自然の働きが、言うなら、血が出たり、熱が出たりすることだそうですね。医学で、人体の上の、そういう現象が。
田中さんの例と言い、高橋さんと、昨日話した例と言いです。そういう所を、繰り返し繰り返しさせて頂いて、本当に、何時までも、すっきりせん事だなと。そこで、ほんなら、これをすっきりさせる、一つの手立てとしてです。最近、合楽で言われる、ね。大祓信行でも打ち込ませて頂いて、心が本当に有り難うなる。心が不安であった、心が、いらいらであった。どうなるだろうかと心配しておった事が、その不安も消えれば、心配もなくなる。ただ、あるものは、有難いものだけが残るというような、その心で、事を見、ね。物を見、その心で受けていくのですから、ね。これもおかげと知っておるのだから、分かっておるのだから。習うた事なんだから、一遍も二遍も。だから、もう即、これもおかげ。もう大将、どうしましょうかと。もうこの人は、こんな風で、とにかく、困っております。そら困ったね。そらお伺いでもしてから、辞めさすなら、いっちょ、辞めさせじゃこてというような事ではなくて、ね。んにゃ、おかげじゃがと、ちゃんとおかげになると。例えばです、そういう中傷をした人に対してもです。それが、確信して言ってのけられる信心を頂いた時に、初めて、金光大神の世界に住んだという事が言えるのじゃないでしょうか。ね。えらい教学的であると同時に、えらい実際的ですね。今日、皆さんに聞いていただいたのは。実際の問題をふんまえて、ね。同時に、私は、教学的だと思うです。ね。
最近、大祓信行のヒントを得たのが、ね。文男先生の話を聞いたり、創価学会のご本を読ませて頂いたり、ね。そこから、一つのヒントが生まれて、はぁ合楽に欠けておったものだけではない。今の教団に欠けておるものは、これだと言うような事になって、もう十幾日になりましょうが。それが、本当に素晴らしい勢いで、皆さんが、それを行じておる。そして、素晴らしい体験が生まれておるという事をね。昨日、いただいた。
秋永先生ところの奥さんが、この頃から、東京へ行って、まぁよんどころない、まぁお付き合いで行かんならんことになって、霊友会という信仰団体。もう私は、その会長である、何とかさんとか、高橋さんから、その本を一冊頂きました。それはもう、本当に無学な方らしいです。ただ、その別にお話をなさるわけでもないけれども、もう先祖、いわゆる、死んだ人を助ける。死んだ、いわゆる、そういう、本当に、その名が示すように、霊友会である。ね。死んだ人と友達になるというような、いわば、会なのです。今度、東京に、二百億からかかった、その仏堂ち言うですか、会堂が出来たち言うんです。ね。それを、なんかい、二十一回に分けて、六千人の方達が集まるんだそうです。そりゃもう、とにかく、鉄骨だけでも、東京タワーよりも、沢山使ってあるち言うんですから。その全部の材料は、イタリーから引いた、わざわざ、特別の大理石だそうです。その如来様と言うですか、ご本尊様と言うですか。その時が、もうそれこそ近代的、見事に出来ておって、ぱぁーっとその、正面に光が当たるようになってね。こう幕が上がるように、すーっとこう、上がっていく、その厳かな、その情景は、その場におって、見ておるだけでも有り難うなるような仕掛けが出来ておるそうです。ね。
私は、その話を聞いてからね。はぁ甘木とか、玉水つぁんとかと、もういわゆる、金光教の信心で言うならば、一番おかげを頂いておるという人達が、こまく見えてきた。私の心は、一遍にまた、改めて大きくなってきた。そして、まいっちょ、驚いた事はです。それだけの沢山の、団体参拝があっておるのだけれども、一言の御説教もなからなければ、お話もないという事だそうです。もう、これには私は驚いたです。そして、なにを言われるかと言うとです。ね。幽霊会じゃなかった、(笑い)霊友会です。やっぱ、幽霊会です、これは。ね。もう、この幽霊会はね、そのとにかく、あの先祖を大事にする以外にはありませんと。これだけだそうです。そして、全部幽霊会の全部の人がです。このお経を、一巻ずつ上げて下さいと。それが何と、二時間かかるそうです。それを、毎日毎日、上げてさえ行きゃ、人間は幸せになるという事なのです。私はもう、これに驚きましたですね。お話をしないという事です。それこそ、沢山の人が集まって、もう、この機会を逃してはならんと言うて、さぁパンフレットを配ったりね。そらもう、一生懸命、有難いことを説教したり、宣伝したりといった様な事を、全然しない。ただ、お経を上げてくれ、先祖を大事にしてくれという事だけだ。ね。いわゆる、今、合楽で言っておる、もう無条件にです。ほんなら、大祓信行なら大祓信行に打ち込むというだけでも、だから、心の状態が開けてくるだろう、有難いことになって来るだろう。それに、ほんなら、合楽で頂いておる、言うなら、合楽教学を持って分かるという事は、合楽教学は、頭で分かるのじゃない。
もう、今日の御理解でも、そうです。私は、教学だと思うです。けれども、実際的なんだと。だから、もう、実際の問題を、そのまま教学していくんだと。ね。誰が聞いても、なるほどと、合点のいくようなあり方と共にです。ね。創価学会が、あのように、いわば、広がったのは、そういう霊友会が持っておるような、言うなら、お題目考証という事とです。もう実に素晴らしい勉強をして、教学を教えるという事なんだと。そら、私の知っておる、もう村内では、まぁ相手にするような人ではなかった人が、最近、創価学会に入って、その村内に説いて回るそうです。そりゃもう、金光教のこっでん何でん、素晴らしく説くそうですよ。金光教の事を。だから、金光教はつまらんち言う。だから、もう創価学会でなからにゃいかんち言うことを、また教学的に、ずーっと話すそうですよ。その馬鹿んごたるとが。覚える。そるけん、ちょいと突っ込んで、ほんなら、こげんとはどげんなるのち言うたっちゃ、分からんげな。それだけ、勉強してる訳です。ね。相まってる訳です。教学と、言うならば、その、そういう信心とが。そこに、ほんなら、創価学会が発展した理由があっただろうという風に、まぁ思うのです。
合楽の場合もそうです。今までの合楽の信心にです。言うならば、心行、これが伴うて、しかもそれが、十年一日のごとくです。それが、それこそ、ね。やってやり抜いて行けれる辛抱力というものを作って行ったならばです。ね。どんな素晴らしいおかげになって行くだろうかという事を思うただけでも、それこそ、胸膨らむ思いが致します。ね。先ずは、私共がほんなら、目指すところはです。金光教の信心とは、金光大神の世界に住むという事は、ね。これもおかげであると分かる世界。しかも、それが繰り返し繰り返して、いよいよ、本当に分かっていくと言う様な事を。またこれからも、いよいよ、教学的に教えて頂く事でしょう。と同時にです。自分の、言うならば、心のなかに頂く、喜びの輪を広げていく心行のことを、大祓信行によって、ね。心が有難い。その有難いから、ね。理屈の上では分かっておって、出来なかった事が、ね。はぁこれもおかげと実感出来れる信心が育ってくる。ね。そこに至った時に、初めて、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃという。それこそ、いよいよ、有難い世界が開けてくる。いわゆる、金光大神の世界が、いよいよ、開けてくると思うのです。そういう信心を、本気で一つ、目指さなければいけません。皆さんでも、ほんなら、合楽の信心とはという様なことでもです。もし、問われたならばね。それこそ、理路整然と説けるくらいな、先ず、勉強しなさらにゃいけません。ね。同時に、今も申します様な、いよいよ、心行に取り組ませて頂いて、ね。いわゆる、信心の実を上げていかなければいけません。どうぞ。